シンチャオ! サイゴンノオトのぴょんこです。
みなさんは森 三千代(1901-1977)という人をご存じでしょうか。
昭和初期に南洋、東南アジア、フランスなどを放浪し、多くの小説や古典の再話を書いた方です。
詩人の金子 光晴(1895-1975)と学生結婚をし、幼い子どもを実家に預けて光晴と上海に渡り、旅先で出会った美術評論家と同棲をしたり、貿易商の男性とお付き合いしたりしながらも、
東南アジア経由でヨーロッパへと、5年もの間光晴と放浪の旅をしたという、型破りなエピソードが知られています。
その間、旅費を稼ぐのは主に三千代の方だったとか。とても行動的でパワフルな女性だったようです。
その三千代が、太平洋戦争勃発直後の1942年に「対仏印日本婦人文化使節」として外務省からフランス領インドシナへ派遣され、旅の成果が何冊かの本になっています。
その中の1冊が、安南の伝説を集めた『金色の伝説』です。もとは1942年に協力出版社から刊行され、1991年に中央公論社から出された文庫版が私の手元にもあります。
表紙のカエルの絵は、ベトナム北部の伝統的な木版画「ドンホー版画」。何ともユーモラスですね。
まだベトナムが、中国やフランスから「安南」と呼ばれていた頃、三千代がその地で集録した伝説を16話、編んだものです。
儒教道徳の美徳が示され、中国の影響を受けたお話がほとんどなのですが、「金の亀物語」や「徴姉妹」の伝説など、中国からの賊を討つという英雄的行動を主題としたものが多いのもまた安南ならではです。
どのお話がどの地域に伝わるものか、地図や村の名前が示されているので、ベトナムに少しでも詳しい方には、とても親しみがわくことでしょう。
そして何より、お話の合間あいまに書かれた、ベトナムの風景や人の暮らしの美しい描写といったら。
序文のはじまりはこんな風です。
「私の眼の先に、まだ、仏領インドシナの田舎の風景がまざまざと残っている。
空をうつしてうちひろがった水田、そのところどころに、一かたまりずつになってざわざわと揺れている竹藪、竹藪のなかのひっそりとした白壁や藁屋根の村落、村の市場や人の集会する亭(デイン)。…(中略)
その村落には、必ず、古い寺(パゴト)がある。また、道の曲がり角とか、岐れ道とかには、小さな祠をよく見うける。その祠の形は、ちょっと、背の高い竈といった形だ。
安南の伝説は、この変化の少ない、静かな雰囲気のなかに生れ、そこに息づいている。
寺や祠には、いちいちその主を知るよしもないが、祀られた精霊が住んでいるのだ。
(中略)
彼等(安南人)は、禍の来ないように精霊の御機嫌を取ったり、怒りを鎮めたり、また特別な願い事をするために、銀紙でつくった紙銭を奉納して燃やしたり、線香を立てたり、神も自分たち達も大好きな檳榔の実を供えたりするのである。
(中略)
安南の伝説の歴史は相当古い。それにもかかわらず、安南の伝説は、安南人の現在の生活からそれほど遠いところにあるとは思われない。伝説の精神は、まだ彼等の生活の息づかいのなかに、生ま生ましく織り込まれている。…」
ハノイのお正月テットの街の様子、少数民族ムォン族が暮らすバビ山の大自然、安南のジャンヌダルクといわれる徴姉妹を祀った寺の住職とのやりとりなど、伝説の舞台となった場所を訪れ、その耳目に触れたものを書き留めた三千代の文章が、その頃のベトナムの様子をありありと伝えています。
読みながら私も、ベトナムで訪れた山岳地帯や田園地帯、のどかな海岸や古都の街並みなどさまざまな風景が目に浮かびました。
「美をあくがれたり、詩をつくったり唄をうたったりして悠々とした世界を楽しむ傾向は、やはり安南人の一特徴かもしれない」と書いた三千代のベトナム像をもっと知りたいです。